
第3,9代内閣総理大臣、元陸軍大将
幕末から大正時代にかけて活躍した「日本軍閥の祖」。
山縣有朋。
山縣有朋。
近代の歴史家のあいだで「大日本帝国を滅ぼした男」といった評価が下されることもある山縣有朋さん。
しかし一方では欧米からの侵略の危機において、卓越した政治力をいかんなく発揮し日本軍閥を作り上げた男でもありました。
●武人に憧れをいだきつつ
山縣有朋さんは、天保9年(1838年)、長州藩の中間(ちゅうげん:武家奉公人の身分の一つ)、山縣有稔の長男として生まれました。足軽よりも下の身分ではあったものの、少年時代から槍術の訓練に余念がありませんでした。
●武人に憧れをいだきつつ
山縣有朋さんは、天保9年(1838年)、長州藩の中間(ちゅうげん:武家奉公人の身分の一つ)、山縣有稔の長男として生まれました。足軽よりも下の身分ではあったものの、少年時代から槍術の訓練に余念がありませんでした。
安政5年(1858年)、御年20歳の時、当時の尊王攘夷派の大物、久坂玄端の紹介で吉田松陰の松下村塾に入塾。生涯、吉田松陰門下としての誇りを持ち続けた山縣さんには、この松下村塾への入塾が、低い身分として生まれた山縣さんの出世への足掛かりとなったのです。(ちなみに、松下村塾と奇兵隊により、幕末の長州藩からは伊藤や山縣のように足軽以下の身分の志士が多く出ているのです)
文久3年(1863年)、高杉晋作が奇兵隊を創設すると、すぐに参加。身分にとらわれることなく有能な人材を登用する高杉晋作に見いだされ、頭角を現していきました。山縣さんの初陣は奇兵隊壇ノ浦支営の司令官として四国連合艦隊を迎え撃ったときでした。
同年12月、高杉が教法寺事件の責を負い総督の任を解かれた際には三代目総管・赤根武人とともに奇兵隊軍監に就任し、赤根が出奔した後は事実上実権を握りました。
慶応元年(1866年)に四代目総管に就任し、長州征討で高杉と共に活躍、戊辰戦争では北陸道鎮撫総督・会津征討総督の参謀となりました。
明治2年(1869年)、維新の功によって賞典禄600石を賜りました。