
<現場からの教育改革提言「教師という職業」(2)>
~桜宮高校の体罰問題と政治介入~
文章:よっすぃ~
大阪市立桜宮高校バスケットボール部顧問による体罰が原因で、高校生が自殺した問題をめぐって、「教育と政治」の関係を問い直す事態が起きている。
体罰が人権を侵害する非道な行為であることは当然のこととして、今日本社会で見直さなければならないのは、橋本徹市長による教育への過剰介入である。
橋本市長はこの問題に対し、体育科の入試を中止しなければ来年度予算を凍結すると主張した。これを受けて教育委員会は予算を凍結されて受ける影響を勘案し、体育科の入試中止を決定した。
私は問いたい。教育委員会とは、そもそも何のために存在しているのか。地域住民の声を教育に反映させるために存在したのではなかったか。戦時中の政治主導教育の暴走を止める手立てとして誕生したのではなかったか。今回の入試の中止決定は、その是非をさておき、教育委員会が首長に屈し、民衆から学校教育を引きはがした。
意外と知られていないが、教育委員会とは第二次世界大戦以降、イデオロギーによって変化する政治からの中立性を保つために設置された機関である。その本来の目的は、戦時中の偏狭な教育を繰り返さないように、地域住民の手によって学校をはじめとする教育機関を運営することにある。
一言でいえば教育によって「民主主義」を守るためにある。そのため、教育委員会はかつて公選制であった。何が善い教育なのかを住民が問い、住民が行う制度であった。しかし、公選制の課題も大きく、結局現在の任命制に変化するが、教育委員会が政治的中立性を保つために存在するという民主主義国家にとっての大原則を、今回の大阪市教育委員会は踏みにじった。
「人の命」の重さを受けての今回の橋本市長の「情熱」を私は否定しない。しかし、「対応策」は本当にそれでよかったのだろうか。策を押し付けることが「教育的」なのだろうか。入試の中止や教員を総入れ替えするという案は、当事者である生徒たちの思いにかなったことなのだろうか。
橋本市長は「それで納得できないなら選挙で落とせばいい」という。しかし、今の子どもたちが選挙権を得るころには、当たり前だが子どもたちは高校を卒業している。彼らの高校生活は今であり、来年のことなのである。
彼はよく「選挙による民意」を口にするが、「選挙の結果」など話し合いの心を失った時点で、民主主義ではない。大多数の利益を優先する功利主義にすぎない。民主主義とはマイノリティの声へ耳を傾けることであり、社会的強者と弱者が共に社会をつくるということである。選挙結果を盾に、子どもという選挙権も持たぬ社会的弱者にふるう彼の権力は、横暴とはよべないだろうか。
橋本市長はどこまで子どもの声を聞いたのか。彼はどこまで保護者の声を聞いたのか。今回彼が執着したのは、今の生徒と保護者の安心ではなく、教育委員会への権力行使というタイミングではないか。これからはせめて、自分が民衆から選ばれた人間かのように民主主義者面をするのはやめてほしい。
今の学校現場になれ合いが多く、改革が断行しないという橋本市長の不信感は、生徒と教師の絆を見ていないからだ。
「先生を全部入れ替えたら、今回の悲しみや反省を引き継げない。それでは桜宮高校は変わらない。」という桜宮の生徒の声が、教育とは結局人と人との結びつきであることを示している。
学校が外側からの圧力で変わったことなど一度もない。あるのはいつも破壊だけである。また再び愚かな歴史を繰り返すのか。自ずから生まれもせぬ変革で、本質的に変わるわけはない。
政治家は外側から破壊して、結局「変わらないのは現場のせいだ」と言うのだろうが、生徒と教師の声をまず聞いてほしい。「このままで何も間違いはない。変わらぬままでいい」と思っている者など、誰もいないはずである。
何がよい教育なのか、何がよい部活動なのか、それが問われる今こそ、その問いを民衆に返してほしい。それを当事者が悩んでこそ、話し合ってこそ、成長があるのではないか。その歩みを奪い、改革を押し付けることが、亡くなった生徒の命を重く受け止めるということなのか。一介の教員として、私は問いたい。教育とは、誰が担うものなのか。
橋本市長よ。
大阪市民の大人たちよ。
そして子どもたちよ。